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映画「御法度」について
文句がある奴はこれを読め

映画は言語では説明できない

 映画作品を言葉で語ろうなんざ、野暮の極みである。
 百万言尽くしてもまだ足りないようなことが、映像であればほんの一瞬のワンカットですべて終わってしまうのだ。
 私は長年アニメファンをやっている経験上、何度か監督さんや演出家さん、あるいは作画さんとお話する機会があった。そういう時いつも感じるのは「映像作家は何も考えていない」ということだ。何も考えていないというのは的確な表現ではない。「言語でものを考えていない」。
 例えば、このカットの後にこのカットがこういうアングルでつながって、それからカメラがパンして…… このセリフのときに顔がアップになって何秒静止…
 どうしてそういう風に絵をつなげたのか?と尋ねたとしても、多分それは答えられないと思う。映像作家の脳みその中には最初から完成フィルムのイメージが流れていて、その通りに作っているだけなのだ。(これは作曲家も似ていて、最初からフルスコアで音楽が脳みその中を流れているらしいのだ)
 このイメージが何なのか、なんでそんなことを思いついたのか、言語で説明できるくらいなら映画監督は最初から小説家になっていたはずだ。
 そういうわけで、私は「御法度」の映画解説などをする気などさらさらない。
 ただ、見終わった私のもやもやしたこの感情はどうしてくれる?とは言いたい。この映画で私の中で何かが激しく動いたのは事実だ。それが何なのか、自分なりの答えを私は探している。
 「御法度」を見て、私の魂は旅に出たのだ。

映画館に足しげく通う私はなんとなく田代の気持ちがわかるような気がしていた

 私がやっと「御法度」を見たのは、年も明けて1月の半ばだった。
 その日私はゲームコミケで久々に友人と話し込んで、なんとはなしにそのまま帰宅するのももったいなく思い、半蔵門線を渋谷で降りて「御法度」を見に行くことにしたのだった。
 この映画元々見たいとは思っていた。
 3年ほど前に大島監督がこれを撮ると発表して、確か私の記憶だと加納惣三郎役は公募だったような気がするが(<未確認)、その時から「ああ、あの話を映画で撮るのか。見てみたいな」と思ってはいた。その後監督さんが病気で倒れられて、この映画はどうなったのかなあ…と思ってはいた。
 それが一昨年だったか制作発表で「松田優作の息子」が加納役として紹介されたときは、正直言って「???」だった。今だから言うけど「どうしてこの子が?」という印象だったのだ。役柄上若い子を使うのはわかるけど、顔のきれいな俳優なら世の中にいくらでもいる。それらを押しのけてこの子かい?と思った。
 これは当時友人らも同じ意見だったが、しかし監督ご自身のスカウトだというので
「じゃあ、これにヅラつけてメイクするとちがうんかねえ」
「まあベテラン監督さんだし、きっと凡人にはわからない理由があるのよ」
などと話したことを記憶している。
 それからしばらく忘れていたんだけど、年末になってお正月映画の季節になって「御法度」の名前は聞いたものの、年末はコミケの準備などで忙しくて、ちょっと映画のために体が空けられなかった。私はTVはほとんど見ないので、実は「御法度」のCM画像すら見てなかった。それでまあそのうち…と思っているうちに年を越してしまったのである。
 正直なところ、もうレンタルでもいいや……と思い始めていた。だから本当にあの日、渋谷で映画を見て帰ろうなんて、ほんの思いつきだったのだ。
 人生どこで何につまづいて転んでしまうかわからない。

 初めて見たその日は午後5時からの上映で、日曜日の渋谷というのに映画館は混んでもいなかった。だから「ひょっとしてこの映画って評判よくないんかな?」などと思ったりして、上映開始を待っていた。
 そして見終わっての感想は「???」だった。
「ふん、まあこんなもんか。あんまり面白いとは思えなかったな」「私はこういう映画が見たかったわけじゃないんだが……」
 しかし見終わった直後、どうしてもプログラムだけは欲しくなって買って帰った。
「松田龍平、かわいかったな〜(=^_^=) 顔見てるだけで終わっちゃったい」
 この年齢の男の子特有の未成熟な顔や骨格がやたらと際立って見えて、メイクや演技では絶対にこの顔は作れない。それはあと何年かするとなくなってしまうお宝である。いいもん拝ませてもらった。
 その時は内容よりも、とにかく松田龍平ばかり印象に残った。もちろん浅野忠信や武田真治もすっごくよかったけど、それはプロの俳優だから当たり前。松田龍平というのは聞くところによると演劇の経験のまったくない素人だったはず、こんなに変わるもんなのか。そうか、こういうふうに化けることがベテラン監督には直感的にわかっていたのか。おみそれしました、という感じであった。
「レンタルビデオでもっかい見たいな」
 その晩、私は何人かの友人に「御法度」を見てきたことをメールで書き送っている。
 ところが、翌朝になっても何かもやもやと映画のことばかり考えているのである。
「最後の斬り合いのとき、惣三郎はなんて言ったんだろう?」
「どうして田代は裏切られたんだろう? こんなにいい男なのに(笑)」
「沖田に懸想…ってあれはどういう意味だったんだろう?」
 ああ、わからない。
 あとからあとから、あのシーンはどうだった、ここではこんなセリフだった、どうしてなんだろう?な疑問が湧いてきて、やはりこれはもう一度映画館で確認するしかない、と思い立ち、その週の水曜日には朝から3回見ました。ばかですね〜。
 しかし、抱いていた疑問は何一つ解けなかった。逆に他にもいろいろ疑問を見つけて帰ってきただけだった。
 私は認めざるをえなかった。私、はまってしまったんだわ。
 金曜日にまた朝から見に行って、その翌月曜(31日)に友人を無理やりひっぱっていって2回見て、その日から最終日まで毎日映画館に朝から晩まで入り浸って見ていた。ばかですね〜。
 もう考えるのは放棄していた。
 一目惚れに理由などない。顔を眺めているだけで一日が終わる。
 私はそのとき、自分が劇中の田代ような気がしていた。彼は不実な恋人に結局裏切られて斬り死にするのだが、さっきも言ったように愛に理由などないのだ。

「御法度」は松田龍平につきる

 極論を述べれば、この映画はこの新人俳優に尽きる。
 もちろん、他の役は誰でもいいとは言わない。武田さん、浅野さんが現状考えられるベストの配役であるし、大成功だったと思うけど、技量のある役者さんだったら他の方でも様にはなったはずだ。土方役もしかりだ。
 しかし加納惣三郎はそうはいかない。この役を誰がやるかで、まったくちがう映画になったはずだ。惣三郎のイメージがそのまま映画の雰囲気を決めてしまうからだ。
 そして監督は、この大役にまだ誰も見たことのない男の子を連れてきた。
 なんだかそれはわかる気がする。この役はTVなんかで見慣れたありがちな顔ではだめなのだ。
 そしてスクリーンに現れた松田龍平は、背が高く男の片鱗を見せながらも顔は子どもで、端正な目鼻立ちや柔らかい頬や顎の線がまるで雛人形のようで、ほんとに錦絵か役者絵から出てきた若衆のようだった。しかも顔がきれいなだけではない。特に目、鼻、口のつくりが印象的で、他に比べようのない個性があるのだ。私は思わず安田靫彦画伯の絵なんかを思い出したりしていた。
 いや、顔は親からの遺産だから、それはほめてもしょうがない。
 驚かされるのは、映画の前半と後半で顔がまるで変わってしまうことだった。
 この役はほぼ全編出ずっぱりである。黙ってカメラの前に立ってればすむような役ではない。最初にいきなり殺陣から始まって、ロケありセットあり、野郎同士の閨房のシーンまである。ちなみに殺陣は登場人物中、一番回数が多い。それを最後までやるというだけでもすごいのに、話が進むにつれて顔もぐっと華やかになっていくのである。特に湯沢と料亭に行ったあたりからは、私はほんとにきれいだと思うんだけど、もう男の子だか女の子だかどっちだっていいような気がして、とても不思議な気持ちになった。
 その不思議な気分は、主題曲を聴くとますます増幅される。
 教授のインタビューの内容から判断すると、撮影現場で実際に松田龍平を見てから書かれたことはまちがいない。また映画の中での使われ方からしても、映画作品のというより、松田龍平@加納惣三郎をイメージした曲なのである。もし加納が松田龍平じゃなかったら、当然ちがう曲になっていただろう。
 もちろん人には好みというものがあって、松田龍平がどうしても気に入らないというのは仕方ない。しかし彼がこの加納惣三郎役の中でこんなふうに劇的に変化していくのを見逃した人は、この映画を見たとは言えないな。

「御法度」はやおい映画である

 「衆道」という古風な言葉にだまされそうになるが、ずばり「御法度」は「衆道」でもゲイでもホモでもない。
 これは「やおい」映画である。
 私は、実は監督のお孫さんとかにコミケに行ってる子とかいて、一緒にやおい本とか読んでいるのか?(^_^;)と思ってしまったくらい、この映画は「やおい」というカテゴリーにぴったしあてまっている。

<やおいの法則>
1)えっちは顔でする。

 やおいの当事者は(受けも攻めも)かならず二枚目である。二枚目でなければえっちはしてはいけない。醜男は醜男であるだけで敗者である。
2)出てくる男は全員主役(受けキャラ)に惚れる。
3)主役(受けキャラ)が何を考えているのかよくわからない。

 主体性がなかったりして、複数の男と関係を持つのはお約束。
4)カップリングの順列組み合わせがある。
 
御法度の例でいくと、田代×惣三郎、沖田×惣三郎、惣三郎×沖田、土方×沖田などなど、見る人の好みによって、なんでもあり。作品は特定のカップリングを強制しない。
5)男だから惚れるんじゃない。たまたま惚れた相手が男だった、という愛の論理がある。

 実は「衆道」の映画という期待は大いに空振りだったのだが、「やおい映画」ではあったので、そこは大いにツボだったです。私らが同人誌で描くとしょーもない内容だったりするのですが、さすがに撮る人が撮ると芸術に……
 いったい私たちは今までやってきたことって…… 私はしばらく同人描く気が萎えていました(笑)
 それにしても御大、若い女の子のハートをつかむとは、まだまだお若い。恐れ入るばかりである。

「御法度」はこんなにえっちだ(^_^;)

 本日のお題は「御法度」のえっち度についてである。
 この作品は、衆道(もしくはやおい)を題材にしている。
 ひょっとすると日本映画の常識として、男性の同性愛という題材そのものに大まじめに取り組んだ作品を撮ることそのものが「御法度」なのかもしれないけど……。われわれコミケットの成人女性向けやおい同人(<意味のわからない人はわからなくてよろしい)の住人からすると、「御法度」くらいの露出度や描写はちっともエロくない。今日、16才くらいのしろーとの女の子のやおい本の方が数段内容は露骨でハードである。
 しかし、私はやっぱり「御法度」のえっちさにはクラクラきた。

1)かわいい顔と和服を着た体に欲情する
 エロい描写というと、やはり世間の常識は裸である。エロの記号としての人間の体の局部、これが一番わかりやすいからだ。
 ところが御法度ではほとんど肌を見せない。せいぜい着物の襟が着崩れてる程度で、あの閨房の場面でも肩が露出する程度である。男はフツーこれだけじゃ立たんだろ(^_^;)<私は男じゃないからわからないけど…
 御法度はポルノ映画ではないので、たたせます、いかせます、な絵はないのである。
 そのかわり、この映画では若くてかわいい顔と若い体を存分に見て下さい、となっている。
 松田龍平は本当に若い。周りの男優のごつごつした顔の中で、ひとりだけつるんとした顔をしているのは、顔の骨格がまだ子供だからである。あごやほほのふっくらしたところや、指や手首や首筋の細さは、若いというよりまだ幼い印象ですらある。まだ和服の下に詰め物をして着付けていないので、肩や腰、胸の線がはっきり出ていて、なんかそれもなまめかしい。
 まだ幼い顔と着物の上から欲情してください。なんかとってもどきどきと変な気分である。

2)16才の男の子が初体験
 はっきりいってこれはかなりきちゃいます。
 加納惣三郎は劇中では18才(数え年だから実際には17)となっているが、松田龍平は15才で撮影に入っている。
「加納はまだ女を知らない」
 私はここらへんで、もうどうしようか〜(^_^;)と狼狽えてしまいました。こういう役を中学を出たばかりの男の子にふるなんて、なんかそれって…それって…ちょっと…
 結局監督の狙いは、加納という人物を演じさせるいうよりは、松田龍平をそのままこのキャラクターに差し替えて、生撮りみたいなことをやったんじゃないのかな。
 湯沢役の田口さんとの閨房の場面も、はっきりいってエロい演技というほどのもんじゃない。指示通り、手はここ、首はこっちむき…と言われるままにやって、ひたすら監督のOKが出るまでじっと耐えた、という感じが、いかにも未経験の若い子という感じ。
 えっちですね、エロいですね。もうどきどきしちゃいますね(^_^;)

3)全部想像する
 一番困るのが田代との関係である。一切絵が出てこない。しきりに「加納と田代はデキている」と言われるものの、危な絵どころか、そういう雰囲気のツーショットもない。ないのだ。田代は惣三郎を衆道に引き込んだということになっているのに、なんでないのだろう。
 ツーショットといえば、この二人が出てくるところって殺陣が二回もある。すると殺陣にこの二人の関係が暗示されているのか。
 じゃあ、あんなことやこんなこととか、こういうこととかもしちゃってるのか… そしてお布団の中では、あんなセリフを言うまでやっちゃうとかして、泣かしちゃったりしていたわけね(^_^;)
 それを浅野さんと松田くんの映像で想像しろというのか?
 ………こんなこと考えるの、私だけか?(^_^;)
 この世に妄想よりもエロい絵は存在しないのである。

児童ポルノ法で「御法度」(^_^;)

 野暮を承知で言えば、武門の習い衆道(前髪のある男の子との恋愛関係)は現代では犯罪である。いわゆる児童ポルノ法である。現代に生きる我々はこの法律は無視して通れない。
 撮影前から話題となった閨房の場面であるが、あれを見てみんな思ったことだろう。「着物を着てる… 帯もついてる…」
 ポルノ映画じゃないんだから別にヌードを披露しろとまでは要求しないが、なんだか不自然には思った。ひとつ布団で絡まっているのに、あまり着物が乱れていない。
 多分これは、加納役の松田龍平くんの年齢がネックになっていると思う。
 彼はこの時、多分16才。とすると、昨年より施行された同法にひっかかるのである。

 児童ポルノ法について。(原文>>>児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律 )
 この法律で保護される「児童」とは18才未満である。
 さらに、これの第二条3項、児童ポルノの定義にはこうある。

「一 児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写したもの
  二 他人が児童の性器等を触る行為又は児童が他人の性器等を触る行為に係る児童の姿態で あって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの
 三 衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するものを視覚により認識することができる方法により描写したもの 」

 「性器」の定義は第二条2項に「性器、肛門又は乳首をいう」とはっきり書いてある。
 つまり映画「御法度」では、松田龍平16才にいやらしいポーズをとらせたり、着物を脱がせた姿を撮影することは、文字通り「御法度」なのである。
 いや、ポルノじゃないんだ、芸術映画なんだという主張は、ことモデルが子供の場合は通用しない。胸元を崩しても乳首が見えたらNGということで、おそらく、あの閨房の場面は、かなり気を使って撮影されたんじゃないかと想像されるのである。
 だから、つまり、あと2年待てば何だってできちゃうわけですよね。<なにが(^_^;)
 しかし、肌を露出すればエロい画像ができるのは当たり前。そういうのが撮りたければ、監督さんも始めから松田くんを採用はしなかっただろう。

 今突然思ったんだけど、松田龍平は昔で言えば前髪がついていてもおかしくない年齢なわけで、実際お顔も年齢相応にかわいらしい。だから顔を眺めて「かわいい」と感じるこの映画は、衆道的には正しいのかもしれない。

続「御法度」は松田龍平につきる
美少年ってなんだ?

 この映画に関して、多分一番評価の割れるのが松田龍平かもしれない。
 龍平くんを評価しない言はたいていこう言うのだ。
「演技がだめ」
「美少年には見えない」

 演劇経験のなさははいかんともしがたい。でもそれはそこらへんのアイドルを連れてきてもたいして変わらないだろうし、そもそも彼は演技で採用されたわけではない。この映画は龍平くんの生撮り映像に私は価値を見ている。この男の子が生まれて初めてカメラと大勢のスタッフの前でライトを浴びていることに意味があるのだ。
 だから演技については、次回作への宿題だ。

 松田龍平が美少年に見えないという意見だが、それって単に自分の男の好みを言ってるだけじゃないの。
 じゃあ私は聞きたい。美少年ってなんだ? どんな顔だ?
 人間の顔は一人ひとり皆ちがう。みんなが美少年だと思う顔って、どんな顔だろう? そんなもんがあると思うか? それは何を基準にイメージしているのだろう?
 もしかして我々はTVや雑誌に洗脳されていないか?
 あなた考える美少年というのは、それは本当に美しいのか? どっかで見た好みの芸能人をイメージして、それを美しいと思い込んでいるだけじゃないのか? よく見慣れたものだから、安心感を持ってそれを美しいと感じられるだけじゃないのか?
 私に言わせれば、美に絶対的あるいは相対的な序列があると思うのは幻想である。
 強いて美の序列を言うなら、それは希少価値であることに意味があるかもしれない。
 たとえば浮世絵の時代、色が白くてふっくらした頬の子供がどれくらいいたと思うか?
 多分、おおかたの子供は15にもなったら一人前の労働力となって、子供扱いはしてもらえなかっただろう。そして多くは額に汗して真っ黒に日焼けして働いたのだ。浮世絵に出てくる若衆なんて、あれは滅多にお目にかかれない姿なので、絵師もわざわざ描き残したのである。
 昨今、TVやスクリーンには男も女もアイドルが量産されているが、流行の化粧やファッションで同じように見えてしまうそれは、本当に美しいのか?

 最初に私が龍平君をスクリーンで見て、あっと思ったのだけど、思い出したのは日本画だった。伝統的な日本絵画では(浮世絵とか春画も(^_^;))本当に映画の中の龍平くんに似ている。かつての講談社の絵本(そうそうたる大家が描いていた)の「曽我兄弟」「源義経」なんかも思い出した。
 仏画とか仏像もこの顔だ。
 「御法度」の美男3人衆のキャストには、共通するちょっとした顔の特徴がある。言葉ではうまくいえないけど、同じ傾向の日本人な美男をわざわざ選んだとしか思えない。しかもどこにでもあるような顔ではないところがすごい。
 これはつまるところ個性というしかないのかもしれない。美人だけど個々の区別がつかない量産型人形は、そんなものには価値はない。加納惣三郎がどこにでもあるような美少年だったら、新選組は芝居を観ても町を歩いてても、年中欲情してしなくてはならない。これはそういう話じゃないだろう。
 松田龍平は人とはちょっとちがう。彼は誰にも似ていない。一度見たら忘れられない。だから加納惣三郎役として意味があったのだ。

 もうひとつ付け加えておこう。私も映画を見るまでは、松田龍平をちっとも美少年だとは思っていませんでしたな(^_^;)<パパよりもハンサムだなとは思ったけど

観客がきれいだと感じるシーンは、撮影側もキレイだと思って撮っているのは、宇宙の真理である

 「御法度」の映画を見て私は実は意外だった。松田龍平って、こんなにきれいな子だったのか……と。若いしハンサムだし背も高いから将来きっと男前になるだろうなのは差し引いても、まだあまるくらいきれいだった。
 これはつまり直接カメラをのぞきこんでいる監督(あるいは撮影監督)の視線じゃないだろうか。
 この子はこの顔がかわいいんだ、このアングルで、この表情を撮ろう。
 微妙な光加減、ここぞという表情を探して、画面は彼の顔と表情を追いかけて撮っているように感じる。そういう画面に見えて仕方がなかった。
 松田龍平の様々な画像がwebや雑誌などで見ることができる。映画のスチールを含め、舞台挨拶や取材などたくさん見て回ったが、1枚として同じ顔のがない。彼は営業用のアイドルスマイルをしてないのだ。だからその時々で顔が違って見えるのだろうか。
 多分撮影する側は、これこれこういう顔をしろと注文をつけなかっただろう。俳優一年生にそんなことを期待するわけがない。カメラの前で演技をしろ、ではない。カメラの方がどうしたら松田龍平を一番きれいにかわいく撮れるか、殺陣やセリフをあてがっては必死で追いかけたのだろう。
 そしてハマッてしまったのが、あの料亭の場面じゃなかったのか?
 私は初めてこの映画を見た時、なんの前情報も先入観も期待もなく見たその時、あの料亭の場面(特にお酒を注ぐところ)でくらくらとしびれるような気持ちになったのを非常に印象深く記憶している。
 なんてきれいなんだ……
 それまで「けっこうハンサムじゃん」なんて平静に見ていたのだけど、ここで私は脳みそ爆死状態に陥ってしまった。
 観客がきれいだと感じるシーンは、当然撮影側もキレイだと思って撮っているのは宇宙の真理である。

 私はかなり以前、とある特撮番組のおっかけをしたことがある。
 TVシリーズは監督は5〜6人入るものだが、主演俳優との相性というのは確かにあった。私が追っかけた作品でも、某監督と某監督の時は主演俳優がえらくキレイにかっこよく撮れるのだ。(しかも話も面白い)もちろん監督はその主演俳優がごひいきで、顔のアップやスロー、繰り返し画面など、よくこんなの撮ったなあ、なのまで画面に割り込ませるのだ。(台本にそんな場面はなかったりする(^_^;))これ見せられたら視聴者も絶対この主役に惚れるわ、と思ったものだ。
 主演俳優に惚れなければ、監督はいい映像は撮れないということだ、とそのとき私は知ったのだ。

 「御法度」の料亭の場面に話を戻すが、突然あそこでキレイに見えたのはなぜなんだろう?
 実はここは龍平くん初のラブシーンの場面でもある。たいしたことはされないまでも、男の人に正面から押し倒されて、袴に手をかけられる…という、多分にこの年ごろの男の子にとってはとっても恥ずかしい場面である。なのに画面からはそれらしい動揺や恥じらい、ぎこちなさがまったく感じられない。
 初めてのラブシーンという人生の大一番?を迎えて、覚悟を決めたのだろう。彼はこの時、松田龍平を忘れて、加納惣三郎になってしまっていたのかもしれない。
 そしてカメラはその顔をきっちり捉えていた。だからあの場面はあんなに印象的だったのか。

美男三剣士を考えてみる

 最初にこの映画の配役を見て驚いた。
 ビートたけし、武田真治、浅野忠信は一人で主役を張っても客が来るような役者である。それが、たけしさんは一歩引いたような傍観者の役だし、武田さん浅野さんは新人俳優のお守り(笑)である。(出演者名が、トップがビートたけしなのは当然として、その次が松田龍平で、武田も浅野もその後なのだ)
 そのうえ撮影スタッフは美術も音楽も世界の○○と枕詞がつくような人ばかりだ。
 どうだ、世界の大島だからこんなすごいメンツが集まったんだぞ、とでも言いたげなスタッフスクロールである。
 豪華な才能が集まったのは、それは監督の御人徳だろう。
 しかし主演に松田龍平を持ってきたのは、紛れもなく監督の意志であり、趣味である。
 この役は3年前の企画当初は公募だった。多分何千と応募があっただろう。世の中には、顔がきれいで演技が上手い十代の俳優なんでいくらでもいる。それをオーディションもなしであっさりさらっていったのが松田龍平だが、彼のどこがそれほど監督のお気に召したのか、私は映画を見て初めて納得した。
 多分、監督の頭の中には日本の伝統美術のようなああいうイメージが広がっているのだろう、と思う。
 監督は最先端を来たと豪語しているが、最先端というのは人とは違う独自性、という少数派である。だから日本の古典的美意識は現代人には逆に目新しく、海外からみるとそれは千年王国日本だけの偉大な遺産である。
 実は龍平くんは、意外にも浮世絵などに出てくる顔によく似ている。私もこっち方面は好きなんだけど、本当にこういう顔って世の中にあるんだとちょっと感激ではあった。だからヨーロッパではジャポニズムな美男として評価されると思う。
 それと余計なことだけど、案外日本人の男の人にもかわいく見える顔なんじゃないかと思う。痩せ細って頬がこけた顔はかわいいとは形容しないし、化粧した顔も不思議なほど違和感がなかったしね。
 それで話の本題だけど、最初に決まったキャストが龍平くんだったということはよく知られている。とすると武田、浅野の選抜の動機はなんだろう?
 龍平くんの採用の根拠は言うまでもなく原作にある。加納惣三郎という変わった役のイメージだ。この役にふさわしいルックスと雰囲気…が選ばれた主な理由である。
 では沖田や田代の役に合わせて二人は選ばれたのか、というとそれは多分違う。
 彼らは10年は芸歴がある俳優であるから、どんな役でもできないことはない。それに田代役はこんなに美男子である必要はない。
 じゃあ話題性や人気で選ばれたか?というとそれもちがう。20代後半の俳優でもっと好感度の高いのは他にもいる。
 だから、これも趣味の顔を選んだと私は思う。
 前にもちらっと描いたけど、松田、武田、浅野の3人には共通する顔の特徴がある。多分がそれが監督の好みにぴしっと合うのだろう。
 もうひとつ考えられるのは、それは龍平くんとのバランスだろう。
 武田さんも浅野さんも主演女優?の相手役だ。龍平くんが引き立たないというのでは意味がない。ハンサムで有能であることはもちろん大事だが、絵的にお似合いであることはもっと大事なのだ。(こんなことはマンガを描いている奴には誰にでもわかるわな)もちろんこれは湯沢役の田口さんにも言える。
 食事の献立にも一汁三菜のような好ましい組み合わせがある。いくらおいしくても、煮魚とスパゲッチとキムチでは邪道なのだ。
 龍平がマグロの刺し身(^_^;)なら、浅野は白い飯、沖田は赤だし、そして田口が日本茶である。だからおいしいのである。
 もしも惣三郎が龍平くんではなかったら、武田沖田と浅野田代ではなかったかもしれない。これはそういうことなのだ。

没カットを想像する

 劇場用の映画には、没とかカットということはわりとよくあるかもしれない。
(1)撮影はしたものの、これじゃだめだ、もっかい。とか、撮影はしたけど使わなかった、とか。
(2)全部編集し終わってから上映時間の関係とか、このシーンやっぱり不要などの理由で、あとからその部分を削ったりとか。

 私は長年のアニメファンなのだが、アニメでは後者の事情はよく聞く。アニメはコンテどおり絵を起こすので、撮り直しをするなら技術上の問題だけだが、もし辻褄の合わないストーリー展開とか、唐突な場面展開に遭遇したら、完成後何かの場面が削られていると思っていい。それはたいてい時間の都合だったりすることが多かったなあ。
 「御法度」はどうなのだろう?
 ひょっとしてこの作品も後からどこか抜いたんじゃないか、とふとそんな気がしたのは、あちこちの映画の感想HPを読んでいて「台本が練れてない」とか「田代の出番が少なすぎる」というのをいくつも見たときだった。
 たしかに田代は出番が少ない。というか肝心の部分がわからない。もちろん原作どおりの展開だし、惣三郎との関係をわからないようにしたのは意図的な演出だと思うけれど、これだと誰がどう見ても『この二人、デキたな』の後
「あの人どこへ行っちゃったんだろう。ほらほら、あの無精ヒゲのカッコイイお侍」
なんて思ってしまうだろう。
『しっかりしたまえ!加納君』でようやく、「あ、いたいた」。
『田代と手を切ってしまえ』の場面で
「田代って誰だっけ?(^_^;)」「なんだ、まだつきあっていたのか……」と、ようやくわかるのである。
 ついでにいうなら、「湯沢を斬ったのは惣三郎」「山崎を襲ったのも惣三郎」で観客は納得、田代が嫉妬で斬ったなんて全然思えない展開だ。
 原作をふまえて、台本的に考えると、やっぱり最初はどこかに田代の登場する場面があったんじゃないか?と私は思えてならない。撮影はしなくても台本にはあったのでは、と。ただ最終的には「誰が犯人か?」という謎解き部分が不要になって、それを外したのだと考えると、なんだかすっきり納得いく気もするのだ。

 ところで、撮影したものの没になったのとか、撮り直しした場面とかは、ちょっと気になる。たいていの場面は一回でOKを出したと思うけど、ラブシーンはアドリブ的な部分もあるし、主演女優?が不慣れということもあって、絶対に撮り直しをしているはずだ。
 例えば、あの問題の閨房の場面だけど、絡みの形はあれだけなのか? 上下入れ替えとか、あっちむきとかこっちむきのは撮ってないのか? 時間はかなり短いけど、映画で使われたあれより前の場面はもっとなんかしてたの? キスシーンは撮らなかったのだろうか?
 謎と興味はつきない。

若い俳優はいいよね。大画面アップがきれいでさ

 今年もいろんな映画関係の賞があった。「御法度」は作品賞を受けるような大作であるのに、新人賞を出していて、しかもメインの3人が若い。これってなんかすごいことなのかも。
 そりゃね、芸歴も実力も評価されている俳優を主役に使えば、きっちりいい映画が撮れるのは道理である。
 しかし「御法度」の主役の龍平くんは16で、それもこの間拾ってきたばかりの超新人。武田さん浅野さんはまだ20も半ば。例えば日本アカデミー賞でいえば、作品賞をとった中ではすごく若いキャストだったのが、ちょっとショックでした。
 私は前々から思うのですが、雑誌とかで話題の映画といえば洋画一辺倒。それは洋画がすばらしいというよりは、なんていうか安定を求めるような日本映画の弱点かもしれない。
 映画会社も商売なので確実性に頼るのは罪だとは思わないですが、しかしこの人なら大丈夫みたいな俳優を主役にすえた話題の大作は、やはり日本映画を保守的な印象にしてしまう。私もそういう偏見持っていましたもん。
 「御法度」のすごいところは、監督さんはこんなに大ベテランなのに使った俳優は超若い、しかも新人でもがんがん使う、そして新しい客それも若い女性を劇場に呼んだことじゃないかと思います。
 今回の三剣士は私のような映画ファンですらないパンピー(一般ピープル)にとっては、この配役は「誰だそりゃ?」状態だったです。
 正直いって、私は浅野さんの顔はCMで記憶にあったけれど、名前は初めて知りました。こんなにたくさん映画を撮ってるなんて後から知りました。
 武田真治さんはTVドラマでちょっと見たことはありますが、こういう役を見たのは初めてで、こんないい俳優さんだとは知らなかった。
 龍平くんは、親の七光りか?くらいにしか思ってなかった。(ごめん)
 こんな博打みたいなキャストを、大手映画会社の、しかもお正月映画にぶつけてくるか?普通。これはほんとは、ものすごいことだったかもしれないぞ。
 常に最先端を来た、と監督さんが自負されるだけのことはある。「観客も自分もまだ誰も見たことのない映画を撮る」---御法度はそういう映画だったんだ。
 見終わって2ヶ月もたってから、今思うことです。

 ただ言わせてもらうけど、「御法度」で描かれたやおい的要素は、わしらは二十数年前からやってることで、今日の少女マンガでは常識的な題材である。それを世界の大島が撮るまで誰も手を付けなかった日本映画は(少なくとも私は聞いたことない)やはり何か欠けている気がする。一度コミケットに来た方がいいかも。>映画会社の社長さん

続・美男三剣士 田代彪蔵の読み方

 今回は田代彪蔵を考えてみる。
 はっきり言って「御法度」中、原作と似ても似つかないのが田代彪蔵である。
 龍平@惣三郎だって原作どおりとは言えないが、少なくとも若くて顔がきれいなことはまちがっていない。武田@沖田も原作どおりの外見ではないかもしれないが、司馬新選組に出てくる沖田のイメージ通りに仕上がっていた。
 ところが田代はなぜか全然ちがうのだ。
 原作の田代は、剣術は強いがひなびた田舎者である。顔はどっちかというと醜男だ。この役がよりによって浅野忠信だったから驚きである。無精ヒゲで地味な着物を着てても、ものすごくハンサムなのである。司馬先生が御存命だったら原作を書き直してしまうかもしれない。(<あくまでも言葉のアヤ(^_^;))
 浅野@田代は、これはもう原作は関係ない。これはこの映画のためにわざわざ作られたキャラだと考えるしかないのだ。
 田代は前半部分で、まず惣三郎に係わってくる役だ。原作にはまったくない場面で惣三郎とのやりとりがある。この役は、最初に惣三郎に性的なアプローチをするという役目を担っているのだ。
 最初にこの二人が入隊を認められる場面から、しばらく二人のツーショットが続く。何をしているというわけではないが、この二人が一緒に画面に出てくる。
 まだ撮影に入ったばかりでどことなく子供っぽい龍平@惣三郎の横で、浅野@田代は観客がくらくらくるような男らしい色気を見せつけてくれる。牢から出てきた田代は、髷は乱れて着物は着崩れているのにも係わらず、びっくりするくらいハンサムだった。
「そうか、さびしかったか? 今夜忍んでいく」
という惣三郎を口説くあの印象的な場面だが、私は最近まであそこは惣三郎が田代を拒否したと思っていた。しかしよく考えると、あの魅力的な田代は惣三郎から見た田代なのだ。観客が「ステキ…」と思ってどぎまぎしているその気持ちは、そのままそれは惣三郎の気持ちでもある。
 こういう役にわざわざ浅野さんをつけた監督はエライと思う。ここは性的なアプローチを受けるのは惣三郎と同時に観客でもある。浅野さんは女性にも男性にも支持される不思議な魅力があって、こんないい男とえっちして当然---こういう前提から観客はドラマに入っていくのだ。
 要するに観客をえっちな気分に引っ張っていくためには、田代は醜男でも型通りの二枚目でもだめなのである。

 それと最近予告ビデオを見ていて気づいたのだが、背か高いというのもこの役の絶対条件だったはずだ。
 田代は惣三郎と刀を合わせる場面が二度もある。(片方は道場だけど)しかも惣三郎との最後の斬り合いは映画一番のクライマックスでもある。ここをかっこよく美しく撮ろうと考えれば、田代には龍平@惣三郎とつり合うだけの顔はもちろん、身長も必要だ。この場面はずっとロングなのだから。

 さっき田代はこの映画のためにわざわざ作られたキャラと書いたが、龍平@惣三郎のためにわざわざこしらえた、と訂正させていただく。単体でも存在しうる沖田とちがって、田代はあくまで惣三郎の相手役。惣三郎あっての田代なのである。

続・美男三剣士 田代彪蔵の読み方その2

 田代について。今ごろになって、私はまた気になることが出てきた。
 浅野@田代が、龍平@惣三郎の相手役としてキャストされたのだろう、ということは前回述べたとおりである。
 龍平@惣三郎は、いわゆる美少年役にはちょっとデカすぎる181センチのガタイと16歳になったばかりの子供顔だ。これととつりあうにはオジサンじゃだめなわけで「背の高い20代のオリエンタルな二枚目」というのがこの役の条件なのだ。浅野さんはこの厳しい条件をクリアして田代役になったのだ、と想像される。
 そしてさらに私は、田代が惣三郎のためにだけ作られたキャラだという決定的な事実に気付いてしまった。
 それは、田代は必ず惣三郎と一緒に画面に出てくるという事実だ。
 田代が単独で出てくるのは牢の場面だけだ。寺の廊下を歩く場面と顔のアップは「惣三郎に言い寄る男紹介」のくだりなので、惣三郎と一緒に出てくるのと変わらない。牢の場面だって、これは惣三郎を口説く場面に続くのである。
 実は湯沢も必ず惣三郎と出てくる役だ。
 惣三郎と同じ画面に出てくるためのキャラという意味で、彼らは本当に脇役なのだ。

 ところで、浅野さんの今まで作品を何本かレンタルで見た。それで思ったのは、田代というのは浅野さんにはちょっとめずらしい、ひょっとすると初めての役柄だったようだ。
 今までハマリ役と言われていたのは、大人しいどっちかというと線の細い青年が突然ぶちきれて人をぶっ殺すみたいな、アブナイ役だった。そしてルックス的にはフェミニンな二枚目ぶりがファンには魅力だったようだ。
 それが「御法度」では夜這いをかけるような男になっていて、これって突然受けキャラが攻めキャラになったようなもんかもしれない(^_^;) 戸惑ったファンも多いだろう。
 「ダイコンな龍平につきあわされた浅野が気の毒」なんて意地の悪いことをいう人もいるようだが、それで私は気づいたのだ。確かに浅野さんの出てくる場面はほとんど龍平くんと一緒だ。そもそも田代は龍平@惣三郎のためにあるような役なのだから。
 だから脇役としての彼の仕事は、俳優一年生の龍平くんに合わせることだったのだ。龍平くんが主役らしく見えるように作ってて、自分のための芝居はしてないのかもしれない。もし浅野さんのファンが田代役に物足りなさを感じるとしたら、それはこんなあたりに理由があるかも。
 インタビューで二言目には「龍平くんと…」なんてコメントしているのを読むと、なんかすごく自分の役がわかっているというか、とっくに撮影は終わっているのにまだ田代の立場で答えていたようにも思えてしまうのだ。
 いい人なんだね、やっぱり。

続・美男三剣士 田代彪蔵の読み方その3

 長くなってきたので、そろそろこの御法度観賞ミニコラムも閉めようと思う。
 最後に私はどうしてもこれだけは言いたい。
 私は浅野さんのえっちシーンが見たかった(>_<)
 「御法度」のすべてに私は満足していると言ってさしつかえないが、しかしそれでもやっぱりこの一点だけは心残りだ。
 なんでえっちシーンがなかったんだろう? こんなにいい男なのに。そりゃあアップだけでも十分すぎるほどえっちな雰囲気だったけど、でも最初に田代が出てきた時、みんなも思っただろ?
「うわ、こんなカッコイイお兄さんがえっちするんかい。わしら果報者じゃのう(^^ゞ」

 別に田口さんに不満があるわけではないぞ。
 田口さんはエライ。冷凍マグロをちゃんとさばいている。
 お相手は、このあいだ中学出たばっかのチェリーである。演技以前の問題として、そもそも興味もなければ経験もないからラブシーンそのものがわかってない。
 この年頃の男の子はそういう方面に興味がある奴は、どんな手段を使っててもAVとかエロ本とか見たりしているが、そうでない子は女の子の手すら握ったことがない、というくらい性的関心度は両極端なのだ。常識的に考えて、サッカーの部活で忙しかった中学生がAVを見たことあるとは思えない。仮にあったとしても、自分が男同士のラブシーンの女役として撮られる側になるなんて、普通に考えたら人格壊れそうな場面である。だから冷凍マグロになってしまうのは責められない。
 そういうわけで、あの閨房の場面、田口@湯沢としては等身大のビニールの人形相手にえっちする、独り芝居に等しい。そこの君、笑っちゃいかん。作品中唯一のベッドシーンという重要な場面にもかかわらず、彼一人に全責任がのしかかってくるのだ。とても大変だったはずだし、しかも児童ポルノ法というハードルをクリアしつつ、とてもえっちに撮れているから大したものだ。
 つまり、この作品はベッドシーンを全部田口@湯沢に預けたということなのだ。

 それはひょっとして「えっちシーンは浅野には任せられん」ということなのか?
 「女もいやです」のあの場面。これを撮った時期は、すでに共演者同士親密になっていた頃である。やろうと思えばラブシーン撮れたのではないか。結果論ではあるが、営業的あるいは話題性からいうと、俳優本人がらみで女の子大騒ぎな(意味わかるよね?)おいしいやおいネタだったはずだ。
 やっぱり26歳と16歳では、監督のお眼鏡にかなうえっちは撮れないということなのか?
 むう。えっちシーン、奥が深い。
 
 それで私は今でも気になってるんだけど、えっちをしようと思って布団に潜り込んだ田代は惣三郎に拒否されて、そのあとどうしたんだろう? 前を押さえてすごすごと自分の布団に帰ったのか? そんなんじゃ寝らんないじゃん(^_^;)
 結びの文言がこれかい…

今度こそ最後(^_^;) 田代彪蔵の読み方その4

 ああ! 私、たった今気づいてしまったの。

 カタログとか見ると、田代のキャラ紹介にはこう書いてある。
「惣三郎を衆道に目覚めさせる云々」
 でもそんなシーンなかったじゃない? 惣三郎がどうして田代とわりない仲になったのか、わからないじゃない?
 でも私は今気づいたの。
 それはやっぱりあの場面だ。「そうか、さびしかったか。今夜忍んでいく」
 ここ以外にありえない。ここを逃すと、次は「この二人、デキたな」という既成事実のみになってしまう。
 前にも書いたように、田代が口説くこの場面はは惣三郎視点であるから、田代の男性的な色気にどきどきしているのは惣三郎自身にほかならない。つまり、この時点で惣三郎は田代の「男」に関心を抱いてしまっている、ここが「惣三郎を衆道に目覚めさせる云々」だったのだ。
 だからつまり、えっちして初めて田代に惚れたわけじゃない。優しい物言いで口説かれたここで、すでに惣三郎には特別な意識が生まれていたわけである。
 あの場面は原作にはない。わざわざこしらえた狙いはこれだったのだ。

余計な一言 田代彪蔵の読み方その5

加納「女もいやです」
田代「惣三郎… そなた、まだ女を知らんのか?」
加納「男に夜這いかける奴にそんなこと言われたくないぞ」

 田代さんは男専門じゃなかったのだとわかった。

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