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映画「御法度」松田龍平観賞の手引き

 無礼を承知でこの項目を書かせていただく。
 俳優とは観賞されるべき者である。音楽や絵画は客の有無に係わりなく芸術たりうるが(要するに自己満足)、観客のいないところに俳優など存在意味はない。
 観客である我々は、俳優を見て大いに楽しむべきなのである。見るだけだけどね(^_^;)

「御法度」は生撮り映画である

 時間にしてたった1時間40分、この映画の一番の驚異であり見どころは主演・龍平@惣三郎の劇的な変化である。
 このおいしいところを見逃しては、さめたピザを食うようなものである。
 龍平くんの変化は、これはもう露骨に素人目にもはっきりわかるほど激しいものがある。映画の前半と後半、どこかで切り替わるのではなく、カットごとにどんどん変わっていく。本当に顔が変わっていって、最後には男の子なのか女の子なのかわからないくらい、不思議な存在に見えるのだ。
 これは演技やメイクのせいなのか?
 多分それはちがう。この「御法度」の惣三郎は多分演技じゃない。原作と同じセリフを言っているのに、雰囲気が全然ちがうし、惣三郎が全部元凶のはずなのに映画を見ているとそんな悪い子には見えないのだ。
 これはきっと龍平くんのありのままが投影されているのだろう。何を考えているのかもわからないところも含めて(笑)
 映画のうんちく本によれば、大島監督は素人を撮るのが上手い監督さんだそうである。下手に演技指導などせず、その本人そのものを撮る。もちろん龍平くんが元々撮られるべきものを持っていることが前提ではあると思うけれど、たしかにウンチク本は嘘は言ってない。この映画での龍平くんはほぼ台本順に撮ったそうだが、なるほどとうなずける。白粉を一度も塗ったことのない15歳の男の子が、数ヶ月かかってこんな立派になりました、という映画になっているのだ、確かに。
 加納惣三郎はどこからか不意にやってきたのではない。15歳の初々しい男の子が新選組入隊よろしく映画チームにやってきて、スタッフや共演者などのオトナの中で数ヶ月過ごして、殺陣や濡れ場やロケなどいろんな経験をして、みんなに可愛がられてこんなにかわいくなりました。
 加納惣三郎はそうやって銀幕の中に現れたのである。

惣三郎の白い着物

 映画は、新選組の入隊審査の試合場面から始まる。
 初登場の龍平@惣三郎は、背が高くて凛々しい男の子である。白い胴着と袴姿もどことなく初々しい。
 私は何の前情報もなく映画を見たのだけど「いいじゃん、この子」と思った。想像していたのよりもはるかにハンサムだった。親の七光で採用されたんじゃないことを、ここでまず納得する。
「あれ。やっぱパパに似てるわ」
 若い頃のパパを知ってる年代の御仁は、やはりそう感じるだろう。
 お稚児さん役をやるにはちょっと背が高すぎるかな、とは思ったが、これから2時間近くつきあう主演俳優が男の子としてカッコイイことには異論はなかった。
 男で背が高いってのは一生ものの財産なんだよね。パパがくれた。
 次の場面は、新選組総長の部屋での挨拶である。ここで初めて顔が大写しになる。
 わっか〜い(=^_^=)
 正直言って、ここでは原作で描かれているような惣三郎には見えなかったし、美形とか妖艶とも思わなかったが、一言で言って「うわ〜ああ(=^_^=)かわい〜」だった。
 だってほんとに若いのだ。セリフでは「18になります」と言っているが、ちがう、やっぱり15歳の男の子。ほんとに子供なのだ、顔が。これを表現する日本語は「かわいい」しかない。
 この時の衣装は白い小袖と黒い袴なのだが、これがまたよく似合っているの。隣に座っている田代の沈んだ色の地味な着物との対比もあって、ほんとに初々しい若い男の子の姿である。多少演技やセリフに不慣れでも、それを補うだけの初々しい瑞々しさを白が引き立たせてくれている。
 この次に出てくるのは白い夜着である。「君は人と契ったことがあるか」の場面と「女もいやです」の場面、惣三郎のおねまは白である。(素材は麻?綿?)
 白い衣装、それは序盤の惣三郎を象徴する色かもしれない。
 牢から出てきた田代に無邪気に声をかけた惣三郎も、白い稽古着姿だった。白を着た惣三郎は、未だ愛にも憎しみにも欲にも染まっていない。まだ何も知らない子供なのだ。
 映画の最後の方だが、幻想の場面で沖田や土方の魂が向かっていくその惣三郎の姿も白い小袖だったが、それも無関係ではないだろう。彼らが求めている惣三郎は、この白い着物に象徴される惣三郎なのである。

 ところで「君は人と契ったことがあるか」の場面だが、ここの惣三郎の寝顔は大変印象的である。しわもくぼみもなく、頬や顎がふくよかなやわらかい線を描いて、雛人形のようだ。このあとの「女もいやです」と同様、白い衣装に象徴されるような清らな少年性がそのまま絵になったようで実に品がいい。
 肩に手をかけた田代がしばらくその寝顔を眺めているのも、それを意図した演出だろうが、さて、このあと田代がどうしてこの白い小花を手折ったか、そこらへんはこの映画からすっぱり抜け落ちている部分である。ちょっとずるい。

今夜忍んでいく

 さて、前半の見せ場は田代との絡みである。龍平の見どころと言いながら、実はここは浅野@田代の見せ場でもある。
 まず牢から出てきた田代がいきなり惣三郎を口説く場面。そして夜、布団に入ってくる場面。
 ここの田代がとってもえっちでステキ…という話はもう言い尽くした。
 田代と惣三郎の絡みで奇妙なのは、ゲイムービーを見る時のあの気恥ずかしさや申し訳なさ(?)のようなものを感じさせないことなのだ。
 女性の立場としては、やはりゲイは他人事であるので、ゲイを題材とした作品を楽しむことはなんとはなしにのぞき見趣味であり、親近感を抱いて見るものとはちょっとちがう対岸の風景である。
 しかし田代と惣三郎の場面、ゲイのラブシーンという感じが全然しないのが何とも不思議であり、この映画はそこが女の子の支持を集める要素ではあると思う。
「そうか、淋しかったか? 今夜忍んでいく」
 観客(女)は自分が言われたような気になってドキドキ喜んでしまうが、浅野@田代はこれをカメラの前で男(龍平@惣三郎)に向かって言っているのである。
「そなたと寝ずに死にとうない」
という布団でのセリフでも思ったが、田代には不思議と邪恋の不浄感がない。
 野郎の猥談には加わらず、部屋のすみで惣三郎をじっと見ている様子。「加納と同期の田代彪蔵」---顔のアップ。お堂の廊下を歩く回り込みの画面。
 物思いをしている男の絵に撮れていて、なんとも言えない風情がある。この映画、序盤の見せ場であり、原作にはない魅力である。
 私は、もちろん浅野忠信という俳優の不思議な魅力と技量は認めるけれど、龍平@惣三郎のあまりに男として未熟な年齢が幸いしているという気もする。
 龍平@惣三郎は多分ゲイをあまりわかってないだろうから、女役をやれと言われても15歳のノンケの男の子のままなのだろう。しかし田代はゲイの役のはずで、でもゲイ役でよくありがちな雰囲気にならないのは、もしかしたら浅野@田代は龍平@惣三郎を男だと思っていないのでは?という気がしてしまうのだ。
 このあたりは資料によると撮影に入って早々の頃で、出演者同士の仲はすでに親密だったそうである。とすると年少者への慈しみのような情愛がそのまま形になっているのかもしれない。
 ついでながら「愛しい念者の名を呼んで…」などと他愛もないことを言う田代を惣三郎が笑うあの場面のあの笑顔は、ちょっと気になる。普段は龍平くん、こんな風に笑うのかな、と。二人が日常会話をする場面は後にも先にもここだけ。

加納はまだ女を知らない

 この時代の恋愛は現代と考え方がちょっと違う。
 魂と身体は合わせてひとつのものである。日本語で「懸想する」「逢う」という表現すれば、肉体的な意味を含む。また男色は少数派ではあったが、宗教的にも社会的にも禁忌ではない。
 そういうわけで、唐突に見える田代の口説きも夜這いも、日本史的感覚でいえば常識的な線でなのである。
 さて、この時の惣三郎である。
「今夜忍んでいく」
と言われて、惣三郎の表情が強ばる。(多分そういう演技だと思うけれど)「儂のことが嫌いか」と聞かれても、イエスもノーも言えずにその場を去っている。はっきり断ってないのだから、田代は予定通り布団にやってくる。
 惣三郎はそこで初めて、合い口を突きつけて拒絶するのである。
 嫌なら最初から嫌だと言えばいいのに。もちろん拒否する権利はあるわけだけど、いきなり刃物を突きつけて、こっぴどくはねつけるのである。
 田代は一応そこで折れて、じゃあ女を買いに行こうと言うのだが、惣三郎は「女も嫌です」と答える。田代はそれで驚いて「おまえ、まだ女を知らんのか?」
 要するに惣三郎は娘と恋愛すらしたことがないお子ちゃまなのである。
 そこで惣三郎が何と答えたかは、なぜか画面にはない。
 画面では肯定も否定もしていないが、惣三郎は女を知らないという噂が広まってしまう。他の隊士らに春画を見せられてからかわれたりしている。(<セクハラ付き)
 このあたりに出てくる惣三郎は、前述の白い衣装の流れで理解していいと思う。まだ男も女とも交わったことがない心(=体)。「女も嫌です」と田代をはねつける惣三郎の夜着は白だった。
 この場面は、とんでもなくうろたえてしまいそうになる。惣三郎役が主演の龍平くんにかぶってしまい、どきどきする。
「中学出たばっかの男の子の身の下の話題を、そんなおっきな声で言わなくても〜」
 このあたり、惣三郎は原作とは微妙に違うように思う。原作を読むかぎり加納は女性的あるいは中性的なイメージなのだが、この龍平@加納で描かれているのは男性未満である少年の未成熟さであり処女性である。
 田代との関係が取りざたされるようになってからは、惣三郎がどう変わったのかはわからない。映画では人のよさそうな年長者の井上のエピソードが始まり、惣三郎の衆道の性癖については楓亭まで待たなくてはならない。

楓亭

 楓亭では、突然人が変わったような印象的な美しい惣三郎を見ることができる。
 それより前、井上と廊下で会話している場面など、龍平@惣三郎が慣れてきたのか凛々しい若侍に見えてきて、何とはなしに落ち着いて画面に見入っている頃のことである。
 場面は料亭のこじんまりした一室。紅葉模様の襖を背景に、行灯の明りに浮かび上がった惣三郎の斜めの横顔は、びっくりするくらいきれいなのである。
 この場面で私は、惣三郎はやっぱり龍平で正解だった!と思わないでいられなかった。こんなに背が高くて確かに男の子なんだけど、女の子のようにも見える。この年頃ならではの、男でもない女でもない不思議な生き物になっている。
「どうじゃ! ここ、ここ。このライティングにこのアングルじゃあ!」
とスタッフさんの雄叫びが聞こえてきそうな絵である。
 この場面での惣三郎の衣装は黒い小袖に袴なのだが、半襟がなぜか白なのである。
 白というのは、序盤での惣三郎の処女性の象徴のような色だった。ここでは着物そのものではなく、中からのぞく襟が白なのである。
 着物は胸元をきっちり閉めて若い娘のようなのだが、これがまた実に印象的なのだ。楚々とした品の良さもあり、また妙にエロティックにも見える。ちなみに、あとにも先にも黒の小袖に白い半襟はこれ一度きりだ。
 この衣装の妙をどう読むか、である。
 この時点では詳しいことはわかりかねるが、田代とは言い交わした仲でその関係が続いていることになっている。わかりやすくいうと「人妻」的立場である。白い半襟ときっちり閉じたような胸元は、それはいわば「貞淑」の象徴なのだろう。
 しかし湯沢に情交を迫られた惣三郎の返事はこうだった。
「人が来ませぬか?」
 最初に田代に刃物まで抜いて抵抗したのと比べると、ずいぶんな違いである。言い寄られて悪い気はしないのか。あるいは、元々湯沢に好意は持っていたのか。そのへんはよくわからないけれど。
 念のために言うと、歴史的に言って日本人は性に寛容な民族だが、それでも複数の相手と同時に関係を持つことは顰蹙ものだった。だから料亭からの帰り道、惣三郎は憂うつそうであるし、できれば田代には知られたくないとは思うのだろう。
 しかしここの惣三郎はすでになんだかちょっと怖い。
 湯沢から、やっぱり田代との関係はあるのか?と問い詰められた惣三郎は、イエスノーをはっきり答えない。そしてはりついたような笑みを口元に浮かべているだけだった。
 なぜ黙ってしまうのか。どうして笑うのか。観客は横顔しか見えなくてとても不安な気持ちになる。

流血小川亭

 小川亭のあたりは役にもなじんできた感じで、印象的ないい絵がたくさん見られる。
 龍平@惣三郎の若侍姿もなんとなくりりしく落ち着いて見えるのは、衆道とは直接関係ないエピソードであるせいだろうか。
 個人的な趣味でいくつか羅列する。
 橋のたもとで密偵と会話する場面。惣三郎の前髪が風に煽られて白く額が大きく露出する。この顔がなかなかいい。
 そして祇園の会所で待っている惣三郎。同心だか与力に呼ばれて出かけるあたり、あのへんの若侍ぶりは凛々しくていいですね。
 祇園の会所から小川亭までは宵の場面では、柔らかく暖かみのある黄色の照明に浮かび上がった惣三郎@龍平の顔が、何とも言えずに美しいのである。行灯に火を入れるのを振り返る場面、会所でぼんやりと座っているロングの絵、井上の部屋での会話。
 宵の場面では少し強調してメイクをしているのかもしれない。とにかく女性か?と思えるくらいにキレイである。

 そして小川亭の見せ場は、惣三郎の流血シーンだ。肥後藩士の菅野と立ちあって、額を切られ、顔面に血をしたたらせる場面である。
 この場面は夜なので、画面上は真っ赤な鮮血ではない。しかし青白い惣三郎の顔にたらたらと流れ落ちる様は、なんだか役者絵のようにりりしくも壮絶である。
 この後、戸板で運ばれる惣三郎は、顔の判別がしにくいくらい顔面から首まで血まみれである。夜の場面なので色調ははっきりしないが、原色で想像すると相当過激なメイクのはずだ。
 しかもこの映画、画面上色が真っ赤で表現されていないというのが心憎い。
 夜間の場面ということで色が沈んで、スクリーンで見た時は白黒画面も同然だった。しかし我々は惣三郎の額から濃い色のそれが滴り落ちた時、それは赤に見えるのだ。色がついていない分、間違いなくそれは鮮やかに赤い。本能的に恐怖と動揺を抱かせる色であり、臭いをも伴って感じられるのだ。
 ちなみにこの場面、田代も沖田も返り血を浴びて、顔面を汚している。沖田の方は残念なことにあまりはっきり見えないかもしれないが、田代は右顔面に浴びて目元をぬぐったという、細かい返り血演出がほどこされているので、ついでにチェックである。
 「流血」というのは、これは実は耽美&やおいジャンルの好む表現の一つなのである。
 そして流血とセットで出てくるのが、「包帯」という表現である。体の一部を白い布で巻いて覆うと、なんとはなしに悲壮感、自虐性などが出るものだが、この映画の中ではよりによって湯沢との濡れ場での惣三郎が額に包帯をしているのである。
 ケガをした直後に側に付き添っていたのは田代である。しかし、額に傷を残したまま情交に及ぶその相手は湯沢である。惣三郎の気持ちはどっちにどう向いているのか、ここはどう読めばよいのだろう?
 いろいろ考えさせてくれる場面である。
 またまた個人的な趣味を言うけれど、実は筆者・正岡は流血、縛り、SMなどの痛い系はだめなので、包帯顔もときめくことはない。しかし「流血と包帯」がエロティック表現でセットになっていることは、友人らの作品でよく承知しているつもりであるので、一応書かせていただいた。

えっちしーん奥深し

 さて、問題の濡れ場についてである。
 別記事でも書いたが、ここは「児童ポルノ法」と主演女優がチェリーであるということが大きな足かせになったのではないかと想像される。まず第一に着物を脱がせられない。さらに経験もなければ見たこともない場面をどう演じさせるか。
 アダルトビデオを見たことがある人ならわかるだろう。「いい〜、いく〜」とか口では言ってるものの、それは嘘…なんてのはどう見たってわかる。プロのAV女優だって、アレの演技が演技でしかないのは見え見えなのだ。
 私は趣味の都合上、えっちアニメを見てもいるが、ベテラン声優でもえっちしーんとなると途端に腰が引けたような演技になって、見ているこっちが恥ずかしくなることがある。
 えっちしーんの演技は案外難しいものなのだ。
 それを昨日今日中学出たばかりの男の子にやれなんて、無理に決まっている。
 だから、この場面の龍平@惣三郎を冷凍マグロと評した私が悪かった。ファンのみなさん、ごめんなさい。映画初出演で、いきなり濡れ場なんか撮らないよね、ふつう。今回龍平くんが男の子だったから「過激な濡れ場も…」程度の記事ですまされたけれど、もし女の子のアイドルだったら大騒ぎだったろう。これはそのくらい大変なことなんだ。
 それでは、龍平@惣三郎の勇気と根性の揺れ場について。
 ここの見どころは2つある。初めての濡れ場の演技。そして、大きく露出する背中や肩である。

 みどころその1。
 田口@湯沢さんとの絡みはカメラ固定の意外なロングカットで、龍平@惣三郎もアレの演技をしている。田口さんの影に隠れて目立たないけれど。身体の向きが変わるあたりから、お布団の端をつかむあたりを注目である。声も出ているのか、DVDを買ったら要チェック…と思っているが、私はまだ確認していない。
 この場面、アレの最中の惣三郎の表情がよく見えないのが逆に幸いして、湯沢との関係において惣三郎の本音が見えないようになっているのは、ひょっとすると意図的な演出?
 俳優志望でもなかった男の子が映画初出演でいきなり濡れ場をやれと言われたら、腰が引けてしまうのは当たり前で、もしかしたら監督としてもそんなことは最初から承知の上で撮っているのかもしれない。「いやがってる、いやがってる」くらいで、この場面は実はちょうどいいのかも。
 それとここは完全に田口@湯沢さんにお任せの展開である。不慣れな龍平@惣三郎はじっと大人しくして演技の邪魔をしないのが正解である。
 みどころその2。
 大きく露出した背中と肩は若い筋肉がついてて、それがきれい。
 顔年齢というのがあるが、身体も同様にそれはある。十代の子がオトナとどこがちがうかって、髪につやがあることと、体の張り。皮膚がね、ぴっとしててしかもやわらかい。男の子でも。
 ええ〜そこまでは映画ではわかんなーい。でも代わりに湯沢さんが触っているので、想像しましょう。
 事を終えた後のピロートーク(首をつかまれて裏返されるあたりから)は、これはらしく撮れていたと思う。セリフのある場面はえっちしーんとはちがうから、安心して見ていられる。
 湯沢が田代のことを問い詰める場面の、張り付いたような笑みが印象に残った。
 このあいまいな笑みは、劇中再三、惣三郎が見せる表情である。台本には「女の笑い」なっているが、16才恐るべし。それだけでは収まらないのだった。

いざ島原へ

 撮影も後半にさしかかって、龍平くんの中で惣三郎というキャラクターが成長して、等身大にまでなっているのかもしれない。雅@山崎とのやりとりのくだりは、ここの龍平くんはよく撮れているんじゃないかと思っている。雅さんとの相性がいいのか、あるいは着流しがかわいく似合っているからか、表情がどことなくリラックスしてて、声もなんだかかわいらしい。
 特に「果報は寝て待て」の後、薄情にも湯沢のことを言い捨てる惣三郎である。
 山崎に、君はなびいたのか?と聞かれて、
「まさか。そんなことはいたしません」
 続いて、誰と結縁しているのか?と聞かれて
「誰とも」
などと、かわいい顔でぬけぬけと嘘を言ってのけるあたりがたまらない。
 着流しの襟元からいつもより多めに露出している首や胸も、なんだか余計にえっちな感じがする。
「山崎さんは好きです」
 厳密に言うと、この場面、実は原作の惣三郎と全然印象がちがう。
 原作では、ここは惣三郎の気持ちが完全に山崎に移っている場面である。山崎を見てはポッと頬を染める女のように移り気な惣三郎で、セリフも山崎の気を引こうというような意味に読める。
 一言でいうと原作は邪な女のような惣三郎なのだけど、それが実際に16の男の子が同じセリフを言うと、全然ちがってしまうから映画は怖い。
 惣三郎は確かに嘘はついている。山崎に気のある素振りも見せている。君は田代や沖田のことどうでもいいのか?とは言いたくなるのは原作と同じだが、しかしああも罪のない顔で言われるとひどく納得させられるものがある。
 可愛いからいいのである。
 そして道行きの場面、惣三郎が雅@山崎の手をとる。映画の中で笑いをとる貴重な場面のひとつだ。しかしここでの笑いは山崎の狼狽えぶりに向けられているのであって、決して惣三郎に対してではないのは、惣三郎の年齢からくる外見に理由がある。
 山崎の手を取った惣三郎は邪気の無いかわいらしい顔をしていて、本当に子供の顔なのだ。これに欲情する山崎の方が何だか滑稽ですらある。
 篭の人となる龍平@惣三郎のわくわくするような笑みは、どう表現したらいいのだろう。
 もう文字では説明できない。実際に映像で見てもらうしかない。
 それらは、龍平@惣三郎がこの年齢でなければ絶対にできない顔なのだ。邪なはずの惣三郎が何だかかわいらしいのである。だから嘘をつこうが、素行が悪かろうが、観客はそれを許してしまうのである。
 原作と映画の惣三郎の、一番の違いはここにあると思う。

もろともに

 最後の川原での斬り合いの場面。
 久々の田代と惣三郎のツーショットは何と斬りあいだが、この映画で最もエロチックな場面のような気がする。
 前々から言うように、田代と惣三郎にはなぜかラブシーンがない。その演出意図はいろいろ想像されるのだが、最大の理由は最後のこのシーンを盛り上げるためかもしれない。
 惣三郎の裏切りに怒って、殺意を向けてくる田代はなんだかすごくセクシーで、ラブシーンのどきどきとあまり違わない。なぜ二人が殺し合うのか、理由は問題ではない。今まさに相手を食い殺そうとするかのような剥出しの闘争本能は、男の征服欲を感じさせて、なんだかひどくエロチックな気分にさせられるのだ。
 田代が振り降ろしてくる刀の柄を惣三郎が両手で取りに行くあの一瞬は、ものすごく力が入っていて、気持ちも乗っている気がする。多分不得手なラブシーンを撮るよりは殺陣の方が正解かもしれない。
 ここでこの物語のもっともミステリアスな場面となる。それは田代に押し込まれて窮地に陥った惣三郎が何事かささやいた途端、田代は戦意を失い、惣三郎に斬られてしまうのである。
 龍平@惣三郎の最後のアップ画面のセリフは
「もろともに… もろともに…」
と言っている。
 この場面、実は原作には具体的にセリフは書かれていない。これは映画オリジナルの台本である。
 一緒に……なんだというのだろう?
 ここは臆測や想像をともなって、解釈の別れる謎の多い場面である。
 龍平@惣三郎はこのセリフをどういうつもりで言ったのだろうか?
 この場面、田代が戦意を失ったのは単に言葉だけではないだろう。惣三郎のその表情にも何かその言葉の意味するものがあるのかもしれない。
 もろともに…と言う時、惣三郎はちょっと表情を歪めて、あるいは笑っているようにも見えるし……不思議な表情を見せる。
 それは今までの場面で見せたことのあるどの表情ともちがう。龍平くんのいうところの女の笑いともちがうし、閨房の場面ともちがう。
 その表情からはどうもはっきりとは読み取れない。惣三郎が何を考えて言ったのかよくわからないのである。田代を斬り殺すつもりでのしおらしい演技だったのか? それとも観念して出た言葉だったのか? あるいは田代だけにはわかって他の人にはわからない特別の意味があったのか?
 雑誌のさまざな記事をよみ探したが、この場面については龍平くんは一言も解釈を述べていないようである。どういうつもりで表情を作ったかは語られていないようである。
 ただ浅野さんの方は、自分としては心中なんだと言う意味のことをいっている。
 田代を斬ったあと、惣三郎の表情は一度も見せないまま、この映画はエンディングを迎える。
 かくして惣三郎は謎のまま消えていったのである。

男未満の不思議なバランス

 「御法度」の撮影が行われたのは、99年の4月〜7月にかけてである。
 撮影開始当時、松田龍平は15歳で、撮影中に16歳の誕生日を迎えている。まさに微妙な年齢の時期にちょうど当たったのも天の配剤というべきかもしれない。
 劇中の惣三郎は、雛人形のような福々しい顔立ちが女の子のようにかわいらしいのだが、実物の松田龍平はスラリと背の伸びたりりしい男の子である。着物着付けなどで体型が隠れてしまっていて、映画ではほとんど目立たないが、首から下はむしろ成長しきったような男の体つきなのである。声変りもかなり進んでいて、同年代の男の子と比較しても、成長は早い方ではないかと思われる。
 つまり、この御法度の撮影時点で、女の子のようなのは顔だけで、首から下はほとんど男だった。
 私は、「顔が子供で体が大人」という不自然なバランスがこの時点における松田龍平の魅力であり、それが加納惣三郎の不思議な魅力を醸したのだと思う。
 すでに子供ではないが、未だ男ではない。
 これをアニメ風に表現するなら、ロリ顔+巨乳みたいなものである。(意味のわからない人はわからなくてよろしい。)この不健康な?アンバランスさに、おたく野郎はくらくらきてしまうのである。松田龍平@惣三郎はこの逆、というか、いわばロリ顔+巨乳の実写男版なのである。
 顔が女の子のようで体つきも子供っぽかったら、それでは月並みというものである。惣三郎の特異な個性を、松田龍平は外見だけで魅せきったということなのだ。
 容姿は持って生まれたものだけれど、その成長過程の微妙な時期にしかないものもある。映画の神様がわざわざ松田龍平を選んで来たのだとしか思えない。早くても遅くてもいけない。どうしても「御法度」は松田龍平16歳の春の撮影でなくてはならなかったのだ。

 撮影から2年がすぎようとしている。この間、松田龍平くんはTVドラマと映画を一つずつ、そしてグラビアをいくつか撮って残している。
 撮るたびに変化し、男の顔になっていく。
 惣三郎と同じものを見ることは二度とない、とはっきりわかる。
 しかし私たちはそれを惜しむことはないだろう。だんだんどこかお父上に似てくるようで、しかしお父上にはどうしてもなかった魅力、たとえば甘い顔立ちからくる若い男の子の不思議な雰囲気。すでに子供の顔ではなくなってきているのにまったく色あせることなく、それどころかますます際立って見えるのである。
 「御法度」はすべてにおいて申し分ない作品だった。16歳の松田龍平の魅力を余すところなく撮りきっている。さて、しかしこうしている時もどんどん成長と変化していく松田龍平を記録してくれるのは、どんな映画だろうか?

2001.2.16 complete

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